昭和39年12月24日 朝の御理解



  昨夜後かたずけが済みましてから三、四十名位残っておられました。後かたずけがあっておる時でした。霊神様にお供えしておりましたお饅頭、皆さんあの、今日の饅頭皆さんお下がりを頂かれましたか。あー頂いておる方もあれば頂いておられない方もある。もう皆がもう私に私に一つの饅頭にもう、普通の事だったらえんりょうするのですけれども、あの饅頭だけは、皆さんが私も私もで瞬く間になくなったのですけれども。
 美味しい饅頭でもなからなければ、別に変わった饅頭でもないのですけれども、昨夜の私一口ご挨拶を申し上げたときに、申しましたように、あれはあの万の事が整う、万の事が寿。万のことがめでたいと言えれる思えるようなおかげを頂く為にというそんなお知らせを頂いてあの饅頭をお供えになっておったのですね。だからみんなやはりその、万の事におかげを頂きたいという念願は皆、同じだという事ですね。
 衣食住のことだけではありません。人間関係の事だけではありません。健康という事だけではありません。もう万の事、一切のことに健康のおかげを頂いて有り難い。(?)万のことにおかげを頂いて有り難いなあとこういうその、おかげを頂きたいというのはもう誰しもが願っておる事なのである。そこでその私は思うのです。同じありがたいというても、あい済まんと言うてもね。
 そのありがたいというものが、沸いてでてくるというところまで、究極、突き詰められたものでなからなければ、しかし、もう、ただの、値打ちはないと思うのですね。修養程度のものであったり、人情論であったり、程度であってはつまらん。例えば、本当にもう自分のようなつまらんものはおらんと思いますと。といくら言うてもですよ、それが神様に通わなかったら値打ちはないでしょうもん。
 本当に、ありがたいと思いますというても、有り難いというのが、神様に通わなかったら私が今日申します、万のことのおかげにはなってこないのです。例えばそれは井戸を掘るのにね、ただ掘っておるけれどもまだ、水の出るところまでは掘ってはいなようなものではないでしょうかね。それで、自分は掘り下げておるつもりでは、おかげにならん。水が出てないものね。
 有り難いなあと。掘り下げれば掘り下げるほどありがたいなあと。または掘り下げれば掘り下げるほど相すまん私だなあというところまで、掘り下げなければだめ。そこから沸いてくるもの、そこから、交流するもの、神様と私共、天地と私共の間に。そこでその相すまんなあとこう、相すまんなあとこう言う事がどういう事に私は、私は相すまんと言う事が本当に、真実沸いてきたらどういう事になるかというと。
 本当に、相すまん私であるというお詫びの印が生活態度の上にも神様、信心の上にも現れてこなければならない。湧いて来るようなありがたさというものを頂かせてもらう為には、私共がです、そのありがたしというものがどう生活の上に表現されておるかと。このようなおかげを頂いてありがたしというそのお礼の喜びの印がどう、表れておるかと言う事。いわばなるわけですけれどもね。
 私は有り難いと。相すまんと。それがちょっとこう有り難いと思うておらんわけではない。嘘ではないけれども、それが天地に通うところまで水が出るところまで掘り進められていないという所にです、お互いの本当の精進不足というものを感じます。ね。そこからいわば、汲めども尽きぬ限りない万のことにおかげを頂けれるものが生まれてくるのではないでしょうか。ね。
 昨日の朝の御祈念の後に、丁度ここで(矢継?)さんと野口さんが一緒にお届けされた。私ここでお届けさせて頂きよったら、別に神様からお知らせを頂いたわけでもなんでもない、いわば私のまあはき違い、お届け違いと言う事になるかもしれません。そのかわり神乍といえば神乍かもしれません。「野口しんこ」という、「矢継静子」さんとこういうんですけれども、私、「矢継真子」さんと書いておる。
 真の子と書いておる。ね。「野口静子」さんとこう名前が変わってわけなんですね。それで私はまあ二人に申しました。「今日は野口さん一つぎりぎり静かなあなたになりなさい。今日はそこに焦点を置きなさい。矢継さん今日と言う今日は一つ真の限りを尽くしなさいて。神様はそれをあなた方に求めておられるような気がするですね」と言うてまあその、お話を、笑いながら伝えさせて頂いたことですけれどもです。
 神様はそういう手違いの中からでもです、それぞれの氏子に求め賜われるものをです感じれるところまで、信心がいきませんともうぎりぎりの真にも、ギリギリの静けさと言う事の上にも、かけておる自分というのも見極める事が出来ません。神様はですね、自然を絶えず、私共にかけておるものを見せて下さる、聞かせてくださるのです。ですから、例えば野口さんとしてはです。
 本当に自分は静けさが本当に欠けておるという事をです、ぎりぎり極められたら有り難いでしょう。矢継さんが本当に真不足を悟られてそこから、掘り下げられる。進められる。信心が進められていくというところから私はお恵みに触れられるところまで、おかげが頂けれるのではないか。どこをどう掘り下げてよいのやら、どこをどう、進めさせて頂いたらよいのやらわからん。此処に生きた信心があるのです。ね、いかにも手違い間違いお届け違いのようにあるけれども。
 そういう中にも私共は神の声を聞くことを怠ってはならない。自然は絶えず私共にそういうおかげを頂いて欲しいという現れですもんね。万のことにおかげを頂かせてもらう。万事におかげの頂けれるその、事を神様が喜んで下されれば私共も有り難い。皆がそして求めておるのである。けれども、求めておるのけれども。うかつにしておって、神の声を聞くことの耳を持たないと、折角の、此処を改まれ此処を磨けと仰っておって下さっておる神の声も無駄にしてしまうわけであります。ね。
 どうぞみなさんも、相すまん、とありがたいと、それがそこに触れるところまで、進められ掘り下げられていかなければですね、ただ掘っております、そこから水も何も出ていないというような程度のことではね、私は何十年間、そげん思うて下りますというたところでです、いうなら、大したあんまりその、おかげにつながるということはない。おかげに繋がらなければ駄目。
  (途中切れ)